ガテン系ITおじさんのつぶやき

多趣味で虚弱体質なおじさんのつぶやき

ITおじさんが大病をわずらった話(前立腺がん その2)

手術に向けて

手術する病院は・・・?

『手術して根治を目指す』と、方向性は決まりました。
ただ、大学病院には「手術用のロボット」がないので、ロボットを持っている病院を紹介してもらうことになりました。
お医者さんから勧められた病院は久留米だったので、管理人の住まいからだと退院後の通院が不便かもしれないと思い、いろいろと調べてみて博多駅からそう遠くない『H病院』に決めました。
ここは大学病院ではないのですが、地元ではかなり大きな病院で、前立腺がんの治療や手術に関しては全国でもトップクラスの実績があるようでした。
ここなら通院の際の交通の便も悪くないし(博多駅からバスで10分程度)、仕事があるときでも「午前中病院 → 午後から仕事」ということも何とか可能です。
「H病院」の院長は、検査入院をした大学病院とは別系列の大学を卒業していたので「もしかして何か言われるかな?」と少し思ったのですが、特に何を言われることもなく紹介状を書いてもらえました。
早速、最短日程で予約をして検査に行きます。

再検査、その結果は?

このころ、福岡でも新型コロナウイルスの影響で緊急事態宣言が発令されていました。
「もしこのまま新型コロナウイルス患者が増えていくと、ほかの病気の患者は入院が難しくなるかもしれない。何とか早めにカタをつけたい・・・」という思いもありました。
H病院でも、血液検査や触診など今までやってきた検査をしたのですが、担当のお医者さんから「念のため、MRI撮りましょう」と提案されました。
手術前に可能な限りの情報が欲しいという事で、MRI撮影の機器が使える日を確認してその場で予約をしました。

後日、MRIの撮影 → さらに後日結果確認となり、その結果は

「思ってたより進行しているようだ」

というものでした。

「部分的に前立腺の外側にもがん細胞が出てきているように見える」

と。

手術?それとも・・・

手術以外の選択肢も

検査結果を見たうえで、あらためて担当のお医者さんと治療法について考えましょうと言う話になりましたが、同席していた妻も交えて話し合った結論としては、

前立腺全摘出手術で根治を目指す』

でした。
もちろん、すんなり決めた訳ではありません。いろいろと葛藤もありました。

手術のメリットとデメリット

私の場合の「前立腺全摘出手術」のメリットとしては、

  1. 病巣を体外に取り出してしまうので再発のリスクが少ない。
  2. 手術はロボットで行うため、体への負担が(昔に比べれば)少ない。
  3. 退院後は定期的に経過観察をする程度でよさそう。

デメリットとしては、

  1. 実際に手術をして病巣が予想よりも広がっていた場合、効果が薄いかもしれない。
  2. 病巣の取り残しの可能性は0(ゼロ)ではない。
  3. 前立腺周囲にある「勃起神経」も取ってしまうので、オトコとしては寂しくなる。
  4. さらに周囲のリンパ節も取ってしまうため、両足に「浮腫」が出やすくなる。

この中で一番悩んだのが、実はデメリットの3.でした。
おじさんとはいえ、一応オコトとして現役です。
好きだったタバコも愛煙家だった父親が病気で吸えなくなったのを機に気合で辞め、趣味だったオーディオ機器やカメラ(一眼レフ・レンズ一式)もとある事情で処分せざるを得なくなって手放し、好きだったお絵描きも場所が無いおかげで随分と描いてません。
残された数少ない楽しみ(?)がまた一つ(しかも永久に)・・・・と思うとやるせない気持ちで一杯でした・・・(泣)

決断は・・・

担当のお医者さんも、
前立腺の全摘出って、大体はもっと年齢が高い方が多いんですよ。「しまぴ」さんはまだお若いので、よく考えてください」
とおっしゃっていましたが、妻との会話で「命あっての物種」という言葉を聞いて、「ハッ」としました。
そうです、管理人には、まだまだ家族を養って行く責任があります。生きていてこそナンボです。

先生、やはり手術します。よろしくお願いします

という言葉が口から出てきていました。

この続きは、次回以降に・・・・。

では、また!

ITおじさんが大病をわずらった話(前立腺がん その1)

虚弱体質の管理人、今まで結構いろんな病気をわずらってきてます。
おいおいお話しますが、最新の大病は昨年(2020年)、過去最高のものでした。
少しでも同じ様な症状のある方の参考になる事を願って、今回はそのお話をば。

人生一番の大病

昨年、管理人は大病をわずらっていることが判明しました。
あまり自覚症状はありませんでした。
病名は前立腺がん』

予兆?

事の始まりは何てことないかんじでした。
ここ2・3年くらい、「なんとなくおしっこの出が悪い」ように感じていました。
ただ、年齢的なものもあるし、大して気にしていなかったというのがホントのところです。
その後、明け方にトイレに行きたくて目が覚めるようになってきたのですが、これも年齢的なものだろうと気に留めていませんでした。
しかし、「何となくひっかかる」感じがしたので、仕事がオフの2020年2月に、近所の泌尿器科に行ってみました。

違和感

前立腺肥大なんかだったら薬で改善するかも・・・」と思いつつ診察開始。
問診の後、触診(!!)されたのですが、新たな世界に目覚めずに良かったと安堵しました。
そんなこちらの呑気な想いとは裏腹に、お医者さんはほんのちょっと深刻な顔。
「確かに前立腺が大きくなってますねぇ。前立腺肥大かなぁ。一部固くなってるところもありますねぇ。念の為、血液検査しましょう。結果は来週お話するので、もう一度来てください」
という事で、その日の検査は終わり。

翌週、血液検査の結果を聞きに再度受診します。
先生は先週よりも難しそうな顔で「うーん、この”PSA”っていう値が良くないんですよねぇ。」
聞けば、前立腺がんがあるときにだけ反応する値だけど、正常値とはほど遠い。
かなり進行している恐れがあるくらいの値が出ているとのこと。
但し、射精して数日は値が上がりやすかったりだとか、他の要因も考えられなくはないので念のために再度血液検査してみようという事になりました。

紹介状

そして翌週。
血液検査の結果は、やはり前回と同じくらいの”PSA”値が検出されているという事で、大きな病院での検査を勧められます。
以前、別の病気で入院・手術をしたときに、結構快適に過ごせた「某大学病院」(以下、「大学病院」)に紹介状を書いてもらい、早速予約して受診しました。

大学病院での検査

検査入院

大学病院で再度血液検査をして、やはりPSAの値が高いことが確認されましたので、検査入院しようという事になりました。
その場で日程調整をして、3月上旬に検査入院が決定。

検査入院は一泊二日、初日に検査をして、翌日の午前中に退院というスケジュールです。
最初は血液検査や心電図などの検査と「骨シンチ」という、がんが骨に転移していないかを調べる検査もしました。

メインの検査

最後にメインの検査で、「前立腺の組織を取って生検に回して、組織の中のがん細胞の有無を調べる」のですが、この検査が痛いのなんの
専用の機械から会陰部に「バシュッ!」と、勢いよく射出された太い針を突き刺して、体の奥の方にある患部(前立腺)の組織を取るという作業を10回以上やったでしょうか・・・。
麻酔もしっかり打ってもらっているにもかかわらず、針が刺さる度に「ず~んっ!」という痛みが会陰部を襲って来ます。
ほとんど痛みを感じない人が大多数だそうですが、管理人は酒呑みなせいで麻酔が効きにくいのか、脂汗で全身ビッチョリになってしまいました。
翌日、会陰部が腫れまくった状態でヒョコヒョコ歩きながら退院して、2日ほど仕事を入れずに静養しました。

がん宣告

後日、検査結果を聞くために受診したのですが、結果は『前立腺がん』の診断。
管理人、54歳の春でした。

がんの告知って、もっとこうドラマチックなイメージを勝手に持っていたのですが、結構あっさり言われたのが拍子抜けでした。
(「あなたは・・・・・・癌ですっ!」「エエェー!!」、ピアノの音が『ダダーンッ!ピロリン・・・・ピロリンピロリン・・』みたいな、昭和のドラマで見たようなイメージ

まあそれはそれとして、、
「骨シンチの結果は問題なさそう、前立腺の外部にがん細胞は出ていない様だ」
ということで、手術して患部を摘出する方向で話を進めることにしました。

だいぶ長くなりました。
この続きは、続編で。

では、また!

おじさんの野球好きな話(その2)

福岡にプロ野球が戻ってきた!・・・けどね・・・。

南海ホークスダイエーホークスとして福岡にやってきた当時、おじさんはライオンズファンでした。
せっかく『おらが町のチーム』ができたんですが、ファン心理というのは複雑ですね。
すぐに切り替えというわけにはいきません。
当時、ライオンズの中でも「秋山幸二」さん、「東尾修」さんが特に好きでした。
秋山選手については気持ちのいい弾道のホームランや、走攻守が揃っているところはモチロン、ホームラン王が取れそうで取れなくて、もどかしくハラハラとさせてくれるところも良かったです
東尾選手は、140km/hにも満たない球速ながら打たせて取る芸術的な投球が良かったですねぇ。

「おらが町のプロ野球チーム」を応援するだ!

そうこうしていると、本拠地として『日本初の開閉式ドーム球場』が完成し、大ファンだった秋山選手がまさかのトレードでホークスに入団したり、あの『世界のホームラン王 王貞治』さんが監督に就任したりして、とにかく驚きのニュースが度々飛び込んで来たのです。
こうなると、せっかくある『おらが町のチーム』を応援しようという気持ちになってきます。
ただ、当時はまだまだ弱かった。
連敗が続いている時なんかは試合のない日は「ああ、今日は負けなくて済む・・・」と思うことがあるほどでした。
その後、秋山さん、王さんによる選手の意識改革があったんだと思います。
小久保さん、松中さんなど有望な選手もたくさん入ってきて、1999年に悲願の初優勝を飾りました。
優勝が決まった試合は球場へは行けず、自宅でテレビ観戦してました。
選手のみんなが王監督を胴上げをしている映像を見ながら、当時2歳だった長女が訳もわからず満面の笑顔で「バンザーイ!」とはしゃいでいた事を今でもよく覚えています。(^^)
モチロン、福岡の街はまさに大フィーバーでした。

その後、毎年のようにAクラスにもかかわらず、優勝した年もプレーオフで敗退するという、もどかしい時代が続いてました。
確か2004年だったと思いますが、対ロッテのプレーオフ終戦福岡ドームに観戦に行きました。
座席はホークスファンのど真ん中のライトスタンドでした。
リードされて迎えた9回、最後の打者の川崎宗則選手が内野フライに打ち取られてプレーオフ敗退が決まった瞬間超満員のドームが10秒近く静寂に包まれたことをよく覚えています。
はるか遠くのレフトスタント上部に100人位いたロッテファンの歓声が遠くにかすんで聞こえていました・・・・。(´;ω;`)

再びホークス身売りの衝撃

また福岡からプロ野球が消える・・・?

その年のオフ、親会社ダイエーの経営不振に端を発した騒動の末、球団が『ソフトバンク』に譲渡されました。
おじさんたちファンは、
『また九州から球団が無くなってしまうのか・・・』
と絶望したものです。

2018年撮影の「PayPayドーム」 当時は『ヤフオク!ドーム』でした。

孫オーナーの粋な計らい

しかし、オーナーの孫正義さんの計らいで本拠地は福岡に置いたまま、球団名は『福岡ソフトバンクホークス』とし、もはや県民歌と言っても過言ではない(?)応援歌『いざゆけ若鷹軍団も最小限の変更(歌詞が「ダイエー」 → 「ソフトバンク」)のみと、嬉しいニュースでした。
「金は出すけど口は出さない」オーナーというところもイイですね!(^^)
さらに孫さんは野球少年だったらしく、優勝した時にグラウンドに出て行って満面の笑顔で胴上げされたり選手たちと一緒にビールかけに参加してはしゃぐオーナー、初めて見ました!(笑)
ビールかけは俺のおごりだー!!」って感じでしょうね(笑)
そんなオーナーの熱意もあり、球団は強くなっていきます。

黒字経営のプロ野球球団誕生!

さらには12球団No.1の選手年俸が良く話題に上がり「金満経営」などと揶揄されますが、現在のホークスは親会社からの資金援助なしで単体で黒字経営という、今までのプロ野球球団の経営からすると信じられない状態なんですよ!
自分たちで稼いだお金で頑張った選手にたくさんの給料を払う、これのどこが金満経営なのかと言いたいですね。ホワイト企業の鏡でしょ?!

7回裏恒例、「いざゆけ若鷹軍団」からのジェット風船

最後に

とまあ、こんな感じでおじさんの野球好きは現在に至っています。
はやいところ新型コロナウイルス感染が収束して、安心して球場に足を運べる日が来る事を心から祈ってます!!

では、また!

おじさんの野球好きな話(その1)

おじさんは世間一般のおじさんのイメージの通り、野球が好きです。
贔屓の球団は、もちろん地元の「福岡ソフトバンクホークス」です。
2021年現在、日本シリーズ4連覇中とまさに無双状態!!
コロナウイルス蔓延の状況もあり、球場にはなかなか足を運べませんが、球団が強いと応援にも熱が入ります(^^)

昔は「野球=巨人」だった

おじさんの野球遍歴は、小学校の頃に始まります。
当時、多くの家庭の夕食時にはお父さんが巨人戦のナイターを観ていました。
当時のテレビ中継といえば、ほぼ巨人戦でしたねー。今の様にパリーグの試合なんて見た記憶がありません。
少年ジャンプなどの雑誌に連載されている漫画も巨人軍が関連したものが多かったです。
ちょっと思い出すだけでも
巨人の星
侍ジャイアンツ
アストロ球団」(主人公のチームが試合をするのはロッテなのですが、ちょくちょく巨人の関係者が登場してました)
「リトル巨人くん」
「悪たれ巨人」
などなど・・・・。
おじさんも見慣れた巨人のファンとまではいきませんが、興味を持つようになっていきます。
因みに、おじさんの父親は亡くなるまで一貫してライオンズファンでした。

野球に少し目覚める

小学校二年生の頃、小倉から門司へ引っ越したあたりだったと思います。少し野球に興味を持ち始めたころに父親からグローブを買ってもらいました。
ただ、父親は仕事人間だったので、一緒にキャッチボールをした記憶はありません。(昔の多くの親父はそんなもんじゃなかったかなぁ)
近所の公園で野球をしている子供たちを遠めに見つつ・・・少しづつ距離を縮めて・・・一緒に野球を・・・とはなりませんでしたね。(人見知りバクハツですね)
なんせ引っ越してきたばかりで、知り合いも全くいなかったので。
その後、同級生と仲良くなってたまに野球のまねごとをする程度でした。
そして小学校四年生の頃に再び門司から小倉へ引っ越します。

ソフトボールチームに入るが・・・

引っ越し先では町内の子供会にソフトボールチームがあったのでそこに所属します。
小学校の間はそのチームでソフトボールにいそしむのですが、中学校に上がるとそこには野球部がありませんでした。
恐らく、グラウンドの広さが足りないといった理由ではなかったかと思いますが、まあまあショックでした。
で、町内の先輩や同級生と一緒にバスケ部に入るのですが、中学一年生の夏休みに同じ小倉の別の校区に引っ越しの為、転校しました。
しかし、転校先では部活に入りませんでした。
ここから文系の生活(いわゆる下校部)が始まります。
その後は、漫画・アニメと音楽ばかりに一生懸命な生活で、しばらく野球熱は下がります。
その間、福岡を拠点としていたライオンズは西武ライオンズとなって所沢へと移転していきました。

大人になって、野球熱がちょっぴり蘇る・・!

その後、19-20歳の頃の東京生活時代の後半に練馬に住んでいた時期がありました。
西武新宿線沿線だったこともあり、ライオンズの広告やポスターを頻繁に目にするようになり、少し野球熱がよみがえってきます。
もともと福岡にいたライオンズを、このころからひそかに緩やかに(?)応援し始めます。

野球熱復活は「ファミスタ」で!

その後、小倉へ帰郷した後におじさんはファミコンを手に入れます。
そこでハマったのが『プロ野球ファミリースタジアム』でした。
仕事先の仲間で集まってリーグ戦なんかもやって盛り上がりましたねぇ。

南海ホークス」身売りの衝撃&笑劇

その後、大阪に本拠地を置いていた南海ホークスが身売りをするという話を耳にしました。
その時に高校の頃からの友人と酒を飲みながら「どこが買収するのか?」という話になったんですが、

私:「やっぱ、金があるとこよねー」
友人A:「コカ・コーラとかあり得るんやない?」
友人B:「チーム名はコカ・コーラ ボトラーズ』・・・か・・・・」
私・友人A:<<爆笑>>
私:「ユニフォームは全身赤やろ!www」
友人A:「帽子のチームロゴのところは、コカ・コーラの王冠マークやねwww」
私:「他は?他はどこかある?」
友人A:「キューピーとかも金あるぜ。『キューピー マヨネーズ』やな!」
全員:<<爆笑>>
私:「帽子のチームロゴはキューピーちゃんか?立体的なヤツ!!www」
<<爆笑>>
友人A:「ユニフォーム肌色やん!それってどうよ!wwww」

・・・・・・とアホ丸出しな会話で大盛り上がりしましたが、その数日後にダイエーが買収して、本拠地が福岡になるというニュースには驚いたと同時に「福岡に球団が戻ってくる!!」と嬉しくなったことを覚えています。

この続きは、「おじさんの野球好きな話(その2)で・・

では、また!

おじさんのお仕事遍歴の話(その2:学生編-Part2)

前回は、
高専入学 → 一週間で辞めたくなる → 何だか良く分からないけど持ち直す・・・・』
までお話してました。
今日はその続きを。さて、どうなるやら・・・・。

部活始めます!

何とか「学校辞めたい!!」から持ち直したおじさんは、部活に入ります。
最初は子供のころから好きだった野球部にしようかなどと考えましたが、クラスメートの野球部員の様子を見て考え直すことにしました。
(詳しくは語りませんが、彼らのせいではありません。彼らはとても気立ての良い正にナイスガイ!で、仲の良い友人としてその後も一緒にツーリングに行ったりして仲良く付き合ってました)

部活でファーストコンタクト

その後いろいろと各部活を見学して、最終的に「コンピューター俱楽部」に入ることにしました。
このクラブは学校で成績計算などに使用していた、当時最先端(?多分)だったコンピューター、
日立の「HITAC」
を結構自由に使用できたのが魅力的に映りました。
おじさん、人生で初めてのコンピューターとの遭遇です。

高専祭』(文化祭)の出し物は・・・?

まあそこで、何だかんだと色んな活動をしてたのですが、秋の文化祭『高専祭』での部活の出し物がなかなかに個性的でした。
ストックフォーム(連続帳票用紙)に英数字と記号を使って、プログラムで絵を描いてプリントアウトし、それを展示するというのです。(いわゆる、「アスキーアート」ですね)
部長さんの作ったものを見せて頂くと、当時から人気だったガンダムのキャラクター「セイラさん」が見事に描かれていました。
それに触発されて私も挑戦してみましたが、マーク式のカードを使ったプログラミングがうまくいかず苦労したことを覚えています。
「俺って天才かも?」と勘違いしたままスクスク育ったおじさんは、
「下書きだけなら自分のものが一番上手いのに」
と思ったことは言うまでもないでしょう。
最終的には、下書きをもとに先輩に作ってもらったんじゃなかったかな・・・
(優しい先輩ばかりでした。ありがとうございました)
そういったことがあり、部内に結構漫画好きの先輩がいる事が判明しました。
学年が終わるころになり、4年生の先輩から
「4月にアニメーション同好会を作るから入らない?」
と優しく持ち掛けられ、二つ返事で入会することにしました。

ここから、今まで自己流で漫画だけを描いていたのが、他人のアドバイスをもらったりしつつ、漫画だけではなくさらにアニメーション制作も手がけていく事になります。

というところで、今日はこのへんで。

では、また!

おじさんのお仕事遍歴の話(その1:学生編-Part1)

今日はおじさんのお仕事遍歴をば少々・・・・と言いたいところですが、お仕事に就くまでも就いてからも、自分でいうのもなんですが、なかなかに波乱万丈な雰囲気がありますので、何回かに分けて、学生編からスタートしてみます。

高校入試

プロフィールにもある程度記載してますが、もう少し突っ込んだお話をば。
おじさん、高校は「家から一番近いから」という、何と言うか自分の息子であれば、小一時間正座させて説教したくなるような理由で、「国立北九州工業高等専門学校」という、なかなかにパンチのきいた字面の学校に入学しました。
本当はもう一つ、友人と一緒に勉強を教わっていた家庭教師のお兄さんが、同校の電気工学科4年生で、事あるごとに「高専は自由でいいよー」「授業料安いから親孝行になるよー」(授業料はもちろん、受験料も公立高校の1/10と激安、さすが親方日の丸!!)と、「かつての名捕手野村克也さん」の様にささやいていたことも多少なりと影響していると感じてはいます。

という事で、第一志望は「電気工学科」、第二志望は特に希望は無かったので、一番入りやすそうな「化学工学科」にしました。
因みにですが、当時の北九州高専の偏差値は、おぼろげな記憶ではありますが「電気工学科:65くらい」、「化学工学科:56くらい」だったと記憶しています。(正確な記録があれば教えてください)
当時のおじさんの偏差値は、調子が良くて56・7位だったので、電気工学科はおろか化学工学科も安泰ではなかったので、電気工学科は『よほどの「何か」が起こらない限りは無理』ということは理解していました。
で、結果は、『運よく化学工学科に引っかかった』といった感じでした。
しかしそこは子供です、根拠もなく「なんだか奇跡が起きそうな気がする」なんてゲロ甘な考えが頭のどこかにあったため、合格したことは嬉しいものの何だか納得いかないというかスッキリしていないという精神状態でした。

それでも、公立高校の受験日前に合格発表があった為、早々に受験勉強から解放されて、周囲の同級生がこれ以上ないくらいにピリピリしている中、一人で遊びまくっていました。
因みに、公立高校の受験日に「面接」が設定されていたのですが、入学希望者は出席必須でしたのでここで「高専or公立」を選択するといった意味合いもあったようです。
面接の内容は、入学志望者を一堂に集めて、名前を呼ばれたら返事をして終わりという、「前の日に何を聞かれるのかドキドキして眠れなかったあの緊張感をどうしてくれる!」といったものでした。

国立高専に入学したが・・・・?

さて、そうして入学した高専でしたが、当時は学校自体は超体育会系(と言うよりも軍隊的?)で、上級生のいう事は絶対といった校風でした。(あくまでも当時は)
強いて言えば1・2年生は奴隷、3年生一般市民、4年生が官僚、5年生は神様・・・と言った感じの雰囲気ですかね。いきなり面食らってしまいました。
高校でいうところの「生徒会」にあたる「学生会」(「生徒会」ではないところに注目)が最高権力機関の様な感じで、4年生の学生会が仕切っている形でした。(5年生は隠居でした)
そんな学校の雰囲気と、学年に女子が一人のみ(なんと同じクラス)という、異様な雰囲気(女子がほぼいないというのは情報では知っていましたが、実際にその環境に身を置くと、まさに異様な雰囲気でした)もあり、一週間経たずして学校を辞めたくなってしまいます。
その後、両親や担任の必死の説得があったようななかったような・・・・、こんなに大事なことをあんまり覚えていない能天気なところがおじさんのいい所かもしれません。
とりあえず何とか持ち直して、部活にいそしむことになります。もちろん、授業はそっちのけです!
その続きは、また次回・・・

では、また!